京都のある大学のPR誌の仕事で、山田洋次監督に取材したのは阪神淡路大震災から2週間後のことだった。

 

「監督。実は私、監督のおかげで命拾いしたんです」
「え?」
「地震のとき、監督の映画をビデオで見ていて、起きていたおかげです」
「あんな時間に映画なんか観てたの? あなたもヘンな人だなあ」
よく考えれば、取材に先立っていかにも資料収集目的って感じで映画を観ていたというのは、大変失礼な話なのだけれど、山田監督にあったときには、まず、その"お礼"を言わねば、と心に決めていた。それに、その時観ていた映画は、仕事のためと言うよりもむしろ、仕事にかこつけて、前々から観たかった映画だったのだ。
 地震が"来た"時に、私とダンナがビデオで観ていた映画というのは、山田洋次監督の映画『息子』だった。5時まで『男はつらいよ』第1作を観て、もういいかげん寝よう、と思ったが、なぜかその日は眠くならず、『息子』に突入したのだった。(実は、『男はつらいよ』第1作もそれまでに2回観ていたが、「あのシーンはどんなだったかな」と気になって、結局最後まで観ていたから、5時になってしまっていた)。

 ま最初の30分だけ…と映画好きの人が聞けば怒りだすような心づもりで見始めたのだが、ちょうど30分頃から物語がおもしろくなり始め、ついつい、観つづけていた。主演の永瀬正敏が「なんで、なんにも言ってくれないんだ」と、和久井映美にラブレターを渡して詰め寄っているシーンにさしかかった、その時、地震が起きたのだ。

 最初、カタカタカタカタと揺れ始め「あ、地震だ」と言い終わらないウチに床が大きく波打って、部屋中のものが飛び跳ねた。「ひえー」としか声が出ないまま、すぐに停電。真っ暗ななか、大きな音と、部屋ごとシェイクされているような揺れに、立つことも、じっと座っていることもできなかった。

 ダンナと私は、最初の揺れがおさまってすぐにマンションから逃げ出した。何時間かして、おそるおそる部屋に戻ってみると、それはすごい光景だった。リビングの、ダンナが座っていたすぐ横の床は、パックリと割れて階下の駐車場が見えていた。鉄骨が1メートル以上突き出しているのも、これまたダンナの足下のすぐそばだった。いや正確には、1階の駐車場がグシャリとつぶれ、ウチの部屋全体が1メートルほど下に落ちたのに、なぜか持ちこたえた鉄骨が床を突き破っていたのだが。

 しかも、その鉄骨はぎっしりと重い雑誌が詰まったサイドボードを持ち上げ、片方だけ持ち上げられて横滑りしたサイドボードは隣室とのふすまを突き破って重い重い着物タンスを直撃し、着物タンスは、普段私たちが寝ている枕元に倒れ込んでいた。まさに、家じゅうドミノ倒しの終点に、私たちの寝室の枕があった。おそらく、このドミノ倒しは最初の一撃で、起きたものだろう。

 あの日に『男はつらいよ』を観ていなかったら、そして観ていた『息子』がつまんなかったら、私たちは地震の時に眠っていた。だから、山田監督、あなたは私たちの命の恩人、というわけなのです。

 取材の席上、山田監督は『男はつらいよ』の寅さん像にふれ、渥美清さんの話題にも触れていた。
「…渥美さんがね、ある時"休憩中"っていうバッジを胸につけているんで、それ、どうしたの? って聞いたら、デパートのお姉さんにもらったと、うれしそうにしていたんですよ。」 『男はつらいよ』の撮影・上映が1年ほど休んでいた頃、渥美さんがデパートへ行って目的の売場の場所を聞いたら、親切に教えてくれたデパートガールが「渥美さんですね。最近、寅さんの映画をやってないみたいですけど、どうしたんですか」と聞いてきたそうだ。それで「休憩中なんです」と答えて、ふとそのデパートガールの胸元を見ると、"休憩中"のバッジをつけている。今度は渥美さんが「これ、なんですか?」と聞いたら「これは私たちが、休憩時間中に店内を歩くときにつけるものなんです」と言うので「へー、いいなあ。同じですね、休憩中」と渥美さんが言うと、「よかったら差し上げましょう」ということになったそうだ。それで渥美さんは、何かのパーティの時に「寅さん、休憩中です」とうれしそうにそのバッジをしていたという。

「渥美さんというのは、そういう人なんですよ」と山田監督。

その後、最後の出演作となった『男はつらいよ』の第48作を残して、渥美清さんは永遠の"休憩中"に入ってしまった。ご冥福をお祈りします。  合掌

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神戸あれから物語

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ニューヨークでつげ義春にであった

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私の地震体験と山田洋次監督と

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ジッタリンジンのライブにいった

1995年春に発行された、京都の私立大学のPR誌。このときは、山田洋次監督と学長の対談取材のほか、演出家の蜷川幸雄氏のインタビューと原稿を担当しました。映画・演劇は私自身興味のあるジャンルでもあり、ぜひあってお話を伺いたい方々でもあったので、とても楽しく興味深い話を聞けた仕事でした。