「当然眠っていた」「定期券を自動改札機に入れようとしたその時だった」「仕事帰りにサウナに入っているときだった」。地震の瞬間何をしていたか、みんなが自分の被災体験を語り始めたのは、嵐のような混乱がひと段落してからのことだった。
 そういう私も神戸市中央区にある自宅マンションで体験したことを、避難所で喫茶店でしゃべりまくっていた。相手が見ず知らずであろうがなかろうが、かまわなかった。言葉にすることで気持ちの区切りをつけて、「これから」の生活のきっかけを探っていたような気がする。他の人は「あれから」どうしたんだろう。

助かったこの、好きなことしてがんばってみよう

「やっとここまで来たんだなあと思うと、不思議な気がします」と、三宮・北野町にあるライブハウス『ブーケギャルニ』のオーナー・清水美絵子さんは、しみじみとこう話す。  清水さんは去年の今頃、JR新長田の北西に5分ほど歩いたところで喫茶店をしていた。そう、火災の被害が激しかった、あの長田だ。「『明日になったら、ここまで火が来ている』『明日は、もうここは焼けている』と近所の人と言いながらどんどん火が近づいてくるのをただ眺めるしかなかった」。火は3日間燃え続け、清水さんの店の隣のビルを半分まで焼いて止まった。あたり一面焼け野原となり、残ったビルも傾いた。「長田は17年間お世話になった街でした。常連さん、特にお年寄りの方がたくさん亡くなり、ぐるりと焼け野原になってしまって…。店をなくしても私はまだ幸せなほうだ、なんとかしなきゃと考え始めることができたのは、5月くらいからでした」。若い頃から神戸のジャズスポットによく出かけ、ライブを聞きながらゆっくりとお酒の飲める店をやりたいという、漠然とした夢を持っていた。「ひょっとしたら自分もあの地震で死んでいたかもしれない」そう思うと、急に漠然とした夢を、夢に終わらせたくないと思った。そんなわけで、古くからの相棒である若林峰子さんをマネージャーとして迎え、この店をオープンしたのが今年の8月。女性客が一人でも安心して入れるような店にしようと、スタッフも全員女性にした。間接照明の落ちついた店内にグランドピアノ。ゴージャスな雰囲気に反して料金は手頃。北野の新しいプレイスポットとして、評判になることだろう。  清水さんの話を聞きながら、私もあの日のことを思い出していた。実は私の自宅マンションは、この『ブーケギャルニ』のすぐ近所だった。震災当時は新築工事中だったこのビルが完成して、お店が入り、こうやってがんばっている人がいる。あの震災から確実に時間がたったのだ。

屋台と炊き出し、街が動き出していた

 1月17日。地震が起きたとき、私は起きて自宅でビデオを観ていた。いや、お恥ずかしい。1階の駐車場がつぶれ、その真上にあったわが家のリビングの床には、下から鉄骨が突き出してきた。しかし、同じ町内にあった仕事場のマンションはなんとか持ちこたえた。2月の末まで避難所の北野小学校で暮らしをしたあと、現在は仕事場のマンションで暮らしている。せっかく避難所で規則正しい生活を身につけたのに、また宵っ張りの習慣に戻ってしまった。

 それはさておき、地震が起きた当日に話を戻そう。あの日、ハンター坂を降りて中山手通りに行ってみたときのこと。ひざを突くようにビルが前のめりに傾いていた。ブリティッシュスタイルのパブがあったはずの玄関は、完全になくなっていた。三宮一の繁華街、東門街は崩れた建物で道がふさがって通れなかった。トアロードを南へ下ると電車の高架橋が崩れ、横からは見えないはずの線路の枕木が見えた。そして生田新道にたどり着いた。誰も歩いていない、車も通らない。ビルの空調や人のざわめきなどが混ざりあって作り出す、街の雑音も全く聞こえない、凍りついた静けさのなかでビルが長々と道に横たわっていた。それはまるで映画のような光景だった。

 震災からしばらくすると、そんな通りにも簡単な食事やコーヒーを売る屋台が出現し始めた。どこも、破格に安い値段。「商売できるだけでうれしい」。そう言って傾いたビルの前で温かいカレーを売る姿に、こちらまでうれしくなった。

 

 その一方で、ボランティアの人たちやガスや水道の復旧工事、ゴミ収集作業等の応援隊、そして自衛隊…全国から駆けつけてくれた人たちの姿が、呆然としている私たちを励ましてくれた。私が避難していた北野小学校にもたくさんの炊き出し隊が到着。遠く藤枝市から、商店街の人たちが2度も夜通し車を走らせてやってきてくれたこともある。「簡単な洗髪とカットを」とやってきた美容師や主婦のボランティアグループもあった。自分たちのことを思ってくれる誰かがいるというだけで、どれだけ心が休まることか。それは、いまも変わらない。

 

 小学校に隣接する商店も、低料金や時には無料というカタチで、早々に店を開けた。校門前にあるサーティワンアイスクリームは地震当日、校庭に避難している人たちにクッキーサンドアイスクリームを無料で配った。私が地震の日に口にできた最初の食べ物は、このクッキーサンドアイスクリームだった。寒かったけれど、おいしかった。その後このお店では、避難所で配給されるお弁当を温めることができるようにという配慮からだろう、「どうぞご自由にお使いください」とい張り紙とともに店先に電子レンジを出していた。ラーメン屋さんは、何日間か無料でラーメンを振る舞った。こうやって自分の経験から思い出してみると、地震前の"日常"を取り戻す牽引力となったのは、こうした個人の商店のがんばりが大きかったような気がする。そして、あのときの神戸の街を包んでいた、不思議な柔らかさと興奮状態といったら…あれをどう言葉で表現したらいいのだろう。いつまでも忘れたくない感覚だ。

一杯コーヒーで、思い出した日常

 地震から11日目、北野小学校の一筋西にある喫茶店『シベール』が営業を再開した。その頃になると、避難所にもひとまず食料は滞りなく届いていたが、嗜好品はなく「コーヒーが飲みたいね」とみな口々に言い合っていたときだった。特に神戸には、コーヒー好きが多い。一杯ずつ豆からひいて入れる「シベール」のコーヒーは香りが高く、普段からお年寄りの常連も多かった。実は私も、ここのコーヒーのファンなのだ。ガスはカセットコンロで、水はミネラルウォーターと給水所から何度も汲んできての営業ながら、きちんとカップでコーヒーを出した。それで料金は150円。北野小学校で避難生活をしていた人も、よくここで"息抜き"したものだ。マスターの美村祐二郎さんは「最初の1カ月くらいは、かなり忙しかった」と言う。「あの頃は、普段無口なお客さんも、水を運ぶのを手伝ってくれたり、いろんな話をしてくれました」。生活がシンプルになったぶん、それを補うようにみんな助け合った時期だった。しかし、水が通ってガスが復旧して、通常料金の300円に戻した頃から、このお客さんはまた無口に戻って「通常の生活に戻ったんだなと実感した(笑)」そうだ。この『シベール』も、いまは休業を強いられている。入居していたビルが、よく調べてみたら解体の必要があるとわかり、建て替えることになったからだ。来年2月には新装開店を迎える予定で、早くここのコーヒーを飲みたいと待ちわびている人は多い。

 いま三宮の街を歩くと、一見、震災があったことを忘れてしまうくらい、落ちつきを取り戻したように見える。けれども、それは傾いたり壊れたりしたビルがほとんど取り除かれたせいで、震災のあった証拠がどんどん消えてしまっているだけのことだと言う人もいる。いや、確かに営業を再開した店やオフィスビルもある

 でも…持ちこたえた建物から道一本隔てて全壊した建物があった。同じ家族でも助かった者、犠牲になった者で運命が分かれた。以前通りの生活を取り戻した人、まだまだ立ち直れない人とでは、きっと記憶の地図も違う中身になるはずだ。怪我もなく「キャンプみたい」とノー天気に避難所暮らしに結構満足していた私でさえ、改めて震災のことを思い出すのはとてもつらくてもどかしいのだ。

 昨日、震災の時に着ていたコートを出した。あの時の寒さが、ふと甦った。

【コラム】わが街、再発見!なんて暢気なものではないけれど

 普段ならまず見ないような、自分たちの生活圏の地図が、震災直後は大活躍した。近くに銭湯はないか、いま通行できる道はどこか、電車の復旧工事がここまで進んだ----そんな情報を求めて、多くの人が避難所や市役所などに張り出された地図を眺めた。2月には、情報誌が「営業を再開した飲食店マップ」を作成して無料で配った。
 なかでも、お風呂情報には誰もが注目した。40分歩いて銭湯にたどり着いて、2時間順番待ちなんて状況が続いたので、服装も完全防寒。ホコリっぽいので、マスクに普段コンタクトレンズを使っている人もメガネをかける。自宅が倒壊した人は当然、洗面器もないからスーパーのシャカシャカいう袋に荷物を積める。それで、ひたすら並んだ。

【コラム】ニャンとも平和な猫の体内地図

 私がいた避難所の北野小学校に、マイケルという猫がいた。飼い主はわからないし、本当の名前もわからない。誰かが勝手にマイケルと呼び出しただけで、タマとかトラと呼ぶ人もいた。それでも彼(彼女?)は悠然として校内を歩き回り、みんなのアイドルとなった。一方犬はといえば、飼い主と離れたとたん、ガタガタと廊下で震えていた。地震は、猫の生活になんの影響も及ぼさなかったようだ。私の住んでいたマンションにも猫を飼っているおじいさんがいたが、いくら呼んでも自室を離れようとしないので、とうとう飼い主のほうが猫を気遣って、傾いたマンションに戻ったことさえあった。

 猫には猫なりの地図があるとでも言うのだろうか。最近は、建物が取り壊されて空き地になった土地に、主のように猫がたたずむ光景を見かけることが多くなった。

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神戸あれから物語

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ニューヨークでつげ義春にであった

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私の地震体験と山田洋次監督と

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真夜中のTV

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ジッタリンジンのライブにいった

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