●伝言板Vol.2
●上が新しいという形です。


佐野 高久 様

貴重な楽譜集をお貸しいただけるとのこと、ありがとうございます。

>  また、注目すべきは、巻末に、森田童子に関して、各界の人が寄せた文章があ
> ります。その中に近藤正臣氏などの名も見えるというのは、なかなか貴重なもの
> であるかも知れません。

ただ、内容については、直接公開は出来ませんが、楽譜集を見せていただける
なら、各界の人が寄せた文章の内容を解説紹介していきたいとかんがえていま
す。(いずれは、連絡のとれる人からWWW上での公開をお願いしてみるつもりで
すが)

なお個人的なことで、まことに恐縮ですが、ここ1ヶ月ぐらいのうちに、引っ越
しをします。(遠くでなく、近いところなのですが)その準備と整理のため1ヶ
月ぐらい、わちゃちゃの状態なので、貴重な楽譜集をなくしたり等あるといけま
せんので、1ヶ月あとぐらいにもう一度、メールにてお願いしたあと送ってもら
う、というのでいかがでしょうか。

リンクはこちらもはらせてもらいます。よろしくお願いします。
なおメールにはそちらのURLがないので、お知らせ下さい。

PS. 信州・松本にお住まいとのこと、僕も何度か行きました。1週間後には、う
ちの奥さんが、仕事で白馬と大町に3日間ぐらいいきます。もう5回目ぐらいなの
で、あまりあわてていませんが、今年の寒さはどんなぐらいだろうと、準備をは
じめています。

管理人 伊藤重夫
(以上のものをメールでも送りました)

 実は、20年ほど前に出版された楽譜集を所有しています。
 自筆であるのかわかりませんが、楽譜の合間に、演奏に関するアドバイスなど
が記載されています。
 また、注目すべきは、巻末に、森田童子に関して、各界の人が寄せた文章があ
ります。その中に近藤正臣氏などの名も見えるというのは、なかなか貴重なもの
であるかも知れません。いまでも、ギターケースの中にその楽譜集を入れたまま
で、ただあるだけです。
 斯様に素晴らしいWEBコンテンツのために、必要な期間お貸しする覚悟をいたし
ました。ご入用であれば、折り返しご連絡下さい。

 なお、ワタクシもWEBサイトを運営しておりますので、かかるサイトにリンクを
張らせていただきたいと思いますが、構わないでしょうか。


破目仙人@空相庵.信州/松本
/佐野 高久/


>かし、例によって現在の森田童子はどうしているのかなどと追いか
>けられ主婦になっているという話を見かけましたが、写真週刊誌に
>取られて掲載されたりしなかったのは救いでした。

僕もおなじ気持ちでした。

数年前に、つげ義春原作の映画「ゲンセン館主人」がつくられましたが、完成パーティだったか試写会だったか、森田童子さんに招待状をだしたところ、花束が送られてきたとのことです。僕は出席していないので、花束は見ていませんが、映画製作にも関わったて、森田童子さんに招待状を出した(弱小)出版社社長から電話で聞きました。僕のまわりの森田童子ファンは「森田童子さんをマスコミに出すような事しだめだよ。」と、その出版社社長に怒りながら、よろこんでいました。
森田童子さんから花束が送られてきたのは、かってコンサートのタイトルにつげ義春の「ネジ式」を使ったからだと想像します。20年前に僕がその出版社社長に「森田童子という歌手が好きだ」と言ったとき「そんな名前の人から、お菓子か何か送って来ていた。誰だろうと思っていた。」と言うので、コンサートのタイトルに「夜行」とつけてるからだよ、と想像していました。その出版社は「夜行」という単行本の劇画誌を出しているのです。

管理人 伊藤重夫


私が森田童子の曲を最初に聞いたのは、大学生の頃深夜のラジオから
流れてきた「雨のクロール」でした。

それ以前に、音楽雑誌などで森田童子のあの風貌は目にした事はあった
のですが、その風貌からうけるイメージと実際に聞いた彼女の声と曲の
イメージのギャップに引かれて「グッド・バイ」のアルバムを買ってきました。

その後アルバムは「マザー・スカイ」「ア・ボーイ」「東京カテドラル聖マリア
大聖堂録音盤」と買いましたが、最初のアルバムのインパクトが強かった
分、「グッド・バイ」が私にとってのベストです。

当時私は山崎ハコのアルバムも買っていたのですが、彼女の場合も
やはりファーストアルバムにのめり込んで、その後のアルバムにもの足り
なさを感じてしまっていました。

個人的には、森田童子や山崎ハコといったタイプのアーティストの場合、
その後のアルバムが音楽的にうまくなったり完成度が高くなっても、
その人の持っていた最も芯になるものが凝縮して詰まっているのがファー
ストアルバムなのではないかと感じています。
ですから、私がもっぱら「グッド・バイ」ばかり聞き込んでいました。

私が大学生の頃、学生運動は一時ほどでないにしろまだ続いていて
自分自身はノンポリでしたが、「グッド・バイ」の中の「さよなら僕のとも
だち」に出てくる「君」と「僕」との話も何となく身近に聞く事ができました。

「グッド・バイ」はCDで買い直そうとしたら廃盤になっていて、入手ももう
不可能だろうなとあきらめていたら、「高校教師」の主題歌でのヒットで
再発売され入手できました。
昔のアーティストの曲が何かのきっかけでまたヒットするという現象は
度々ありましたが、昨今の音楽市場では森田童子はその可能性の
低いアーティストだと思っていただけにうれしい誤算でした。
しかし、例によって現在の森田童子はどうしているのかなどと追いか
けられ主婦になっているという話を見かけましたが、写真週刊誌に
取られて掲載されたりしなかったのは救いでした。
当時森田童子の歌を聴いていると、この人は将来どうして行くんだろう
と思ったりしましたが、主婦になっているという話を聞いてどこかホッと
しました。
昔、ロックは大人になったらやってられないといいながらローリング
ストーンズが50歳を過ぎてもロックしていますが、森田童子の歌はあの
当時、あの年代だから作り歌う事が出来た歌ではないかと思います。

森田童子のライブは新宿のルイードで下田逸郎と二人出演したときに
見ました。最初に森田童子が歌い、その後下田逸郎が歌ったのですが、
下田逸郎が「彼女は僕より年下なんどろうけど青春が終わったって唄っ
てますが、僕は30でまだ青春してます。」と話していたのを妙にはっきり
憶えています。

ぜんちゃん


20年前,小学生だった僕は,姉と二人で繁華街へでかけたのは,その時が最初だった.
ビラを受け取り,大人扱いされたことに,少し有頂天になったのだった.
その時受け取ったビラが,森田童子のビラで,サングラスにアフロヘアが強く印象に残った.
中学生になり,森田童子の歌と出会い,その容姿からは想像もできないアグネスチ
ャンのような歌声とあまりにもせつない詩とメロディにのめりこんでいった.
当時,森田童子はFMラジオには,たまに出演していて,高橋基子のニューサウン
ズスペシャルでは,なかなか大ボケをかましていたのを記憶している.
岩手の岩泉というところのマルコンレコードにも行き,店主に当時の様子を尋ねたこともある.
ドラマ高校教師のCMで,TVから森田童子が流れた時は,一瞬耳を疑った.ただ,彼女が,
一切マスコミに顔を出さなかったことは,昔からのファンとしては,ほっとした.
笑福亭鶴瓶氏が,昔ラジオ大阪で「ぬかるみの世界」という番組をやっていて,よく森田童子
をかけていた.多分,彼も森田童子のファンだったと思う.


菜の花あかりです。

あかりがこの名前を10年来、パソ通なので使ってきたのは、もちろん童子
さんの歌の題名からです。童子さんと出会ったのはコンサートツアーの50
0人劇場、、、もぉ20年くらい前のことかなぁ。

あかりの家には、昔の「非行少年」のフアンクラブの会報があります。

コンサートの後で、フアンの方の集まりに出席された童子さんは、要望によ
り、サングラスをみなさんの目の前ではずしたそうです。

とてもまぶしそうに細い目をこすっていたという記事が印象的でした。

ちなみに「500人劇場」で、あかりの住む岡山に来たときのとうじつの
朝、深夜の地元の山陽放送のラジオに生出演して、童子さんは「今カブトム
シを飼っていて、部屋に入るとカブトムシの匂いがします」と言っていた。
アナウンサーの方が「八重歯がかわいいですね」と言ったのが、とても頭に
残っています。

そうそう、昔レコードを買っていただいた品ですが、あかりの手元には、童子さんのサイン
色紙が2枚あります。はっきり言って、宝物です。(^_^)ちなみにあかりは、30代前半で
す。。。



森田童子さんのホームページを作っていただいたことに感謝します。

やっぱりいたんですね〜森田童子さんのファンが。
私がはじめて森田童子さんの曲を聞いたのは、中2の頃だったかな。
もう20年以上前のことなんですね。
その後しばらく離れていましたが、大学生の時レンタルレコード店で「夜想曲」を
見つけて思わずレンタルしてしまい、むさぼるように聴いた記憶があります。

ところで、アルバム「狼少年」をLPで持っている方にお聞きしたいんですけど、
歌詞カードってはいってましたか?

おまけ
ギター本ありますよ。
「森田童子全曲集」
国際楽譜出版社というところから、¥1700で発行されてました。
ただし、「夜想曲」までしか載っていませんが・・・

E−MAIL: tenpoint@blk.mmtr.or.jp


  なんとなく立ち寄ったホームページを見てアルバイトをして、ようやく手に入れ
た国産のフォークギターに、Gigsonのロゴマークを貼り付け得意になっていた
ころを思い出しました。

  私には、15年間くらいずっと捜し求めていた曲があります。ある日ラジオから
流れていた今日がどうしても頭の中に残り、曲名も、歌手名もさっぱり分からないま
ま、似たような曲が流れてくるたびになんか違うな〜などと思っていたものでした。
そんなある日、テレビからあの曲が流れてくるではありませんか、私の探していた曲
は、「ぼくたちの失敗 」でした。その時心の霧が晴れたのと同時に 、ほかにも聞き
たい曲が沢山頭をもたげてきてしまいました。なぜなら、学生時代集めていた100
枚近いレコードを実家の母に処分されてしまったのです。まあ10数年ほったらかし
にしてあった私も悪いと思いますが、何も捨てなくてもいいと思いません?メジャー
な曲は、すぐに手に入るけれどマイナーな曲はほとんどないですね〜
              トホホ・・・・・・・

  話は変わりますが、彼女はギルドのギターを使っていたのですか〜私もギルドの
ブルーグラス系は、大好きです。ギルドのクラフツマンは、エピフォンからスピンア
ウトした人を集めたなんて事、知ってました?

                                 乱文でした
   R390


はじめまして。突然ですが、私が始めて森田童子を知ったのは、中3の時、高校教師
というドラマを通してです。今まで聴いたことの無い感じのする曲調で、一気にはま
ってしまいました。そのころはCDを全て買い、飽きることなく毎晩聴きました。今
でも熱烈なファンで、よく聴いています。彼女の歌からは、60年、70年代の若者の
、怒りや、さみしさや、その他諸々の感情が伝わってくるようで、聴く度にその世界
へ入り込んでしまいます。周りに森田童子を知る人はいなかったので、このホームペ
ージを知る事が出来て、本当に嬉しく思っています。また、直接森田童子のライブに
行った方が羨ましいかぎりです。ちなみに私が一番好きな曲は、ピラビタールです。
森田童子に関して、もっと色々知りたいです。それではまた。

志帆子より


こんなホームページがやはりあったのですね!

大学時代、1980年にわたしは、初めて森田童子のレコードを聴きました。そのこ
ろよくあったレンタルレコードで借りた「マザースカイ」で、その時はすでに復
刻版でした。ぼろぼろのアパートでたばこを吸いながらA面に針を落としたあの
時のことは今も忘れられません。最初の1曲目「ぼくたちの失敗」は、今も変わ
らず森田童子の中で一番好きな曲です。あの曲を聴きながら私は真っ暗な地平線
の向こうにぎりぎりの光のある風景を見、そして口笛とともに後ろに引っ張られ
て魂が抜け出たような感覚を味わいました。
 森田童子の世界というのは確かに明るいとはいえませんが何か単純な中に私を
放さないものがあります。あの詩とメロディそしてわたしは石川鷹彦のギターが
大好きです。
 大学の4年(1984年?)ぐらいのとき大阪・梅田のバナナホールでライブをし
たときに私は見に行きましたがライブが終わった後、アルバムを買うと森田童子
自身がひとりひとりジャケットにサインをしてくれるのですが、買った人を見て
それぞれ何か文章を書いていました。わたしはその時「マザースカイ」を買い、
彼女がじいーっと私を見て(実際はサングラスなのでよくわからない)「母よ僕
の鳩を撃て 大阪にて森田童子」という文を書いてもらいました。そのアルバム
は今も私の部屋にあります。またその時のチケットは今も持っています。その他
「夜想曲」を買ったときのポスターとか、そういえば森田童子のギターの本と
か、「マザースカイ」のカラー版とかいろいろ探すとあるんじゃないかなぁ。な
にか協力できるかなぁとも思います。それでは。

大阪 36歳 音楽関係の会社員です。


 高校のころラジオの深夜放送から突然流れた曲が僕たちの失敗でした。もちろ
んそのときは曲名も歌手もしらずで、放送局に電話し、歌手名を調べ、翌日レコ
ード屋に駆け込みました。それから22年たった今でも忘れることのできない人
です。でもこんなページを開いてくれる人がいるとは感激です。また明日あたり
こんどはCDを注文しにいこうかと思います。ところで森田童子さんは今どうし
いらっしゃるのでしょうか。


「サイン会」があったというのは驚きました。
森田童子のサイン入りLPですか…。羨ましいです。ぼくはモノを集め
たりはしないので、欲しくはないのですが、世の中に「サイン入りLP」
が在るということがうれしいです。

伊藤重夫


はじめまして。

わたしの自慢は森田童子さんのサイン入りLPをもっていることです。
みんなおどろくばかりで羨ましがってはくれませんが。
「サイン会」なんてものがあったことが面白くて,自慢なんです。
なんとも似合いませんよね。
千葉のデパートもどきにて,ワーナー移籍直後だったとおもいます。

ダンナの学生時代に大事にしていたオーディオが実家から届いたとき,
ほいほいとア・ボーイをかけてもらったら,レコードにかびがはえてて
今や高価なレコード針をだめにしてしまいました。

もう5年も前になってしまったわけですね。
背中を向けていたTVからいきなり「森田童子」がながれてきて,
なんだ?いったいなんなんだ?
とふりかえったことがありました。
そのあとしばらく興奮状態でした。

高校生のときに一人で両国の黒テントのコンサートを見に行きました。
こんなに人が詰まってしまって,火事でもおきたらどうなるんだろうと
おもったことのほうが,コンサートの中身よりも記憶にのこっています。

優良な森田童子ファンではありませんね。

この盆休みにはじめてインターネットをつなぎました。
つないでよかったなあ。
ときどき参加させてください。


千葉市 さるるるる(33才)


あるわけないよなーと思いつつホームページの検索をかけていたら
なんとあるではありませんか。
もっと早く気がついていれば良かったのにと思っています。

僕のまわりには、僕のまわりに限らず多くの場合そうだと思いますが
ほとんど森田童子について語ることのできる人はいませんし、
そもそも知らないという人がほとんどで残念に思っておりました。
このようなホームページが発展していくことを願ってやみません。

僕はついにコンサートを見る機会を得ることができなかったのですが
レコードとCDは全て持っています。
まあおおげさにいえば(そうおおげさでもないのですが)僕の
人生に常に影響を及ぼしているといっても良いかもしれません。
「何の理由も何の行為も持てない僕たちの時代に」というメッセージは
まさに僕の存在そのものに対する問いかけであり、ますます
人の精紳的存在領域が希薄になっていゆく世のなかにあって
時を経てさらに重さを増しているように思います。

本当はもっと書きたいのですがまずはごあいさつまで。
今後ともよろしくお願いいたします。


ふと思いついて森田童子のキーワードでホームページを探してみたら,あったじゃないですか!考えて見たらこれがネットワークのあたりまえの使い方で,世間の人はみんなそうして使っているのかもしれないのですが,点在している共通項を持つ少数の人達を結びつけるインターネットの存在価値を私は初めて実感しました.うーん!!

私が初めて森田童子を聞いたのは21-22年前の高校生の時で,KBSが行っているラジオの深夜放送に森田童子がゲストとして出演し,”早春にて”と”さよならぼくのともだち”がかかりました.初めに聞いたこの2曲が今でも好きです.そう多分私は典型的な森田童子ファンだと思います.今でも彼女の曲は好きですが,残念ながら当時感じたほどのぴりぴりした心に刺さるような感動は味わえなくなりました.年をとったせいか,時代が変わったせいか良く分かりませんが,皆さんはどうなのでしょうか.

今森田童子が歌っていた世界がどういう意味を持つのか私には良く分かりません.ただ彼女のファンには共通の価値観と彼女の歌から得た共通の何かがあるように思います(どのアーティストにも言えることかもしれませんが).そしてそれらは今後私たちの生活の中でより大切になって行くような気がしています.抽象的で上手く言えませんが,このホームページからそんな将来への何かを与えて頂ければと期待しています.

いしくら(97 8 11)


当時というか、今から20年以上前、全共闘が崩壊したとしてもそのイメージおよ
び残滓は残っていたものでした。高校生に・・・。
子どもはどうしても大人に憧れるもので、高校生は大学生に憧れたものでした。全
共闘というムーブメントはものの見事に失敗したのですが、その基本つまり政治が
変わればなんとかなるのではないか?という思想は高校生に残ったわけです。今思
えばとっても子どもの考えですが、当時はそれがありました。
いちご白書、コロンビア大学、公民権運動、人知れず微笑まん、安田講堂、二十歳
の原点・・・・と書いてしまうと身もふたもないのですがやはり基本は公民権運動
でしょう。いまだに否定する人もいますが(笑)・・・・。
公民権運動を知らない人もいるでしょうが平たく言えば、黒人も人間だし白人と平
等なのだということです。拡大解釈すれば黄色人種も平等だということになります
。みんな平等だと・・・(笑)と思ったわけです。人間は平等だという考えが唯一
の真実だったわけですから行動はちぐはぐになったわけです。荒井由美さんの「就
職が決まって髪を切った・・・」というやつ。森田童子の「長い髪をかきわけて」
というやつ「髭をはやした」やつとか、「仲間がぱくられた日曜の朝」とか「キャ
ンパス通りを炎と染めた」とか・・・・ですね。
髪を切った人を堕落といいましたが、現実に考えれば髪を切らなかった人の現在、
つまり97年の今日を考えた場合、暗澹たる気持ちになります。髪を切らなかった
人たちが、何と誰よりもエグイ、というか自己保身というか、単純に言えば面白く
ない人たちになってしまったのか!と・・・。
一応、わたしは髪を切って、新聞社かなんかに入ったのですが、当時の会社という
か新聞社が持っていたメカニズムは、それは嫌でした。ありゃ、熱情だということ
。つまり全共闘運動は一時の迷い、大人になれ!ということです。
当時、田中角栄という人が椿山荘でパーティーを開いたことがあります。わたしは
行けといわれました、当然「嫌です」といいました。今、反省しています。行くべ
きであったと・・・。
不思議ですが、田中という政治家を今は尊敬しています。全共闘世代の人には申し
訳ないのですが、根っこというか根本の思想は田中某のほうが上というか、確たる
ものでした。
その意味でいけば韓国の朴(ぱく)大統領も上でした、現実の政治を!ということ
です。
政治というのは未来です。未来を掴むためには一歩一歩、鈍牛の歩みしかない、と
いう大平首相の考えは正しいと今は思います。わたしたちが忘れていた若しくは、
見えなかったのは田中も朴も大平も理想というか、高邁なイメージを持っていたと
いうことです。
ただ当時のわたしは田中、醜悪。朴、最低。大平、醜男というようなもので見えな
かった・・・。
森田童子なら「見えぬあなたに恋をして」震えた、麗子ですね。
ただ、やはり公民権運動というか思想、つまり人間はみんな、黒人でも白人でもイ
エローモンキーでも平等だというのは正しいと思います。思えばそのための方法論
の問題でした。童子にいわせれば黒人でも白人でも、黄色人種でも「友達」だとい
うことですから・・・。そのために「短兵急」をしてしまったのが僕たちの失敗だ
ったのでは?
ただ、思想というか信念というか真実というか、その意味では人間はみんな平等で
あると愚考しています。40歳になった今でも気持ちは22年前のわたしのままで
ありました。
「僕が愛した友達の、そして模型飛行機の工作用ナイフで切った、鳩の首筋のやわ
らかな温かさよ。僕たちの内なるやさしさの・・・」でした。チャンチャン!
亀より。


はじめまして。
素敵なホームページですね。
デザインもシンプルでとてもきれいです。

森田童子さんが最後のライブ活動を続けていた頃,
僕たちは大学の音楽サークルで彼女の歌を歌っていました。
もちろん彼女の歌は,まねして歌えるようなものでもなく,
あくまでも彼女の作った作品を
僕たちなりに歌っていたということですが・・・。
その当時でも彼女の歌を知る人はほとんどいなくて,
その印象的な名前だけが,わずかに知られている程度でした。
それでも彼女の歌を歌い始めると,
ライブを見に来てくれていた人々は静まり返り,
歌の世界に耳を傾けてくれました。
彼女の作品世界の魅力を,わずかでも伝えることが
できたのかもしれません。

ドラマをきっかけに,彼女の歌が取り上げられたことは
とてもよかったと思っています。
それまで彼女の存在を知らなかった多くの人々に
「こんな世界をもった人がいたんだ」
と認識してもらうことができたのですから。
所詮,彼女の歌は流行とは無縁なもの。
にもかかわらず,
このページに参加しているみなさんのような
新しい聞き手が現れてくれたのですから,
やはり野島伸司さんには「ありがとう」と言いたいですね。

それでは「細く・長く」このページを続けてください。


East Asia より


蝉がジージー鳴く季節になると、通勤の車の中で、「逆光線」を聞きます。
リピートで何度も何度も何度も聞きます。
「夏はさみしい白いランニングシャツ」で、何十年か前の、確かに夏がさびしか
った自分を思い出す様な気がします。
否、今でも本当は静かに発狂する夏なのかもしれません。
ただ、毎日抱え込んでいる雑事に忙殺されて、それさへ気づこうとしないだけな
のかもしれません。

自分が安全かみそりを使わないですんでいるのも、この歌の美しさのおかげかも
しれません。
童子さん、ありがとう。
本当にありがとう。

森田童子の隠れファン夫婦の妻より


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